我々は自分の人格を自分で選択して形成していると言えるのではないだろうか
人格とは、経験を通して形成されると言われる。しかし、もう一歩踏み込めば、その経験はどれほどの根拠があるかは別として、多くの場合は自分で選択しているのである。そして、おそらくは意識して選択している者の方が、自己に対する認識も高まる気がする。常に「自分とは何か」「自分はこれでいいのか」「もっと自分があこがれる人がいるではないか」「まだ自分はその人のようになれていないではないか」、と。
──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)
経験を通して人格が形成されるとするならば、そして、その経験を自分で選びとっているとするならば、自分の今のこの人格は自分で作り上げたものだと言うことになる。なんて恐ろしい。
何がって、それなのに自分の人格のことをそんなに認識できていないことが恐ろしい。どの経験を選びとるかも無意識であれば、その結果どんな自分ができあがっているかも無意識なのである。
さらには、こうなりたい自分っていうのがぼんやりと浮かんでいるにも関わらず、そんな自分を手に入れるのとは真逆の選択ばかりしている。
ま、それが今の人格上、何も考えずにやる行動で、変えるつもりがないならそれでいいんじゃない?って思う部分もあるんだけどね。
こうなりたい、ああしたい、もっとこうできれば、そうやって今とは違うもっとできる自分を目指すのであれば、意識した選択ってのもやっていく必要があるんだよな。難しい。
どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私 (新潮文庫)
- 作者: 石黒浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/10/28
- メディア: 文庫
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