自分の経験とは、実は自分の頭の中に記憶されているだけではなく、社会の中で多くの関係者の頭の中に記憶されているものだ
考えれば当然のことで、自分の記憶容量には限界があり、自分について全てを覚えることはできない。しかし、自分を取り巻く無数の周りの人間の記憶容量を合わせればかなりの量になり、自分では記憶できないこともたくさん記憶している可能性がある。
(中略)
自らの経験は自らの頭の中でにあると、何となく考えてきた。しかしそれは正しくなく、自らの経験は、社会の中で共有されているものなのである。
──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)
どうにも「経験」というものは、それを実際に体験した本人のものっていう印象があるんだけど、それだけとも言えないってことに気づいた。
まぁ、一般人だと少ないんだろうけど、有名人だと、誰それがどこどこで何をしていた、なんて話が、本人も覚えてないところで囁かれることも、非常に多いのではないだろうか。
なんたって、人生の全ての出来事を記憶できる人なんていないわけで、私も、アレそんなことやったっけ?ってなことを言われることが普通にある。相手の勘違い記憶違いの場合もあるんだろうけど、全部が全部そんなわけもない。
忘れる経験があるのは仕方がないことだ。でも、その経験が自分の中に何がしかの影響をしたことは間違いない。それを覚えているのが自分だろうが、他人だろうが、それはやっぱり自分がやったことなのだ。
己の記憶がすべて、という考えもあるんだろうけど、私としては、例え忘れたとしても、自分に起こった出来事はすべて自分のもの。覚えているのが他人だけだとしても、と考えるほうが、なんだか前向きで貪欲で私好みな気がするのだ。
どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私 (新潮文庫)
- 作者: 石黒浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/10/28
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (1件) を見る