真面目なら真面目なりに、不真面目ならば不真面目なりに、生きていけるでしょうし、生きていかなければならないでしょう?
「けれどまあ、真面目なら真面目なりに、不真面目ならば不真面目なりに、生きていけるでしょうし、生きていかなければならないでしょう?」
──芝浦縁(『明治あやかし新聞 三 怠惰な記者の裏稼業』より)
明治を舞台に、あやかしを隠れ蓑にして事件を解決していく人々を描いた物語第三巻。引用に取り上げた、艶煙こと芝浦縁の過去が描かれた一冊です。
縁の義父は、ごろつきから少女を助けようとして、命を落としてしまう。父の死後、縁は盛り場に通って適当な暮らしを続けている。それが人として正しいかと言われれば、間違った方向なのかもしれない。けれど、何にしたって彼は生きている。死んでなければ生きていくしかないのだ。それがこの言葉に現れている。
先日のブログ記事を書いた数時間後、駅で電車を待っていた私は、ホームの上で地震に見舞われた。先々週に騒がれた大阪北部地震である。私自身としては、揺れには見舞われたが、ライフラインも止まらず、家の中もバランスの悪い棚が倒れた程度。近隣に住む親もほぼ被害なし。地震当日に電車が止まって出勤できなかったことを除けば、ほとんど被害はなかったと言える。
それでも、夜の余震は恐ろしかった。大きな揺れのあったその日の深夜の余震。まだ眠りが浅かったせいか、目が覚めてしまい、そのまましばらく眠れなかった。
ニュースでは、不幸にもあの地震で被害にあった人々の話が連日流れてくるし、水道管が破裂した映像も何度も見た。
ほんの数秒の揺れがすべてを変えてしまう。その恐怖を改めて実感した。
なにせ、阪神淡路大震災は、まだ小学校に上がりたてだったがゆえに、眠っていて記憶にない。東日本大震災は関西にいたため、揺れの余波を受けた程度だった。震源地近くでの大きな地震の経験が、運の良いことに一度もなかったのだ。
そうは言っても、次の日は普通にやってくる。職員の方の懸命の作業もあってか、交通網は翌日にはほぼ平常運行になっていた。だったら、家にこもる理由もない。普通に出勤して、仕事仲間と互いの状況を報告し合う。それも忘れて、2週間も経てば、それまでの日常に戻っていく。
忘れるな、備えろ、そういうけれど、毎日怯えて暮らすわけにもいかない。
有事が起ころうと、何事もなくともどちらにせよ、生きている限り、私達はその日々を生き抜かなければならないのだから。
辛くても苦しくても嬉しくても楽しくても何にしたって毎日を生きるしかない。
先々週の地震は、ただ生きているだけですばらしい。そして、死んでないなら生きていくしかない。そういう思いを強くさせる出来事だった。
明治あやかし新聞 三 怠惰な記者の裏稼業 (メディアワークス文庫)
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