いちまんのいいことば

すてきなことばあつめました

自分の経験とは、実は自分の頭の中に記憶されているだけではなく、社会の中で多くの関係者の頭の中に記憶されているものだ

考えれば当然のことで、自分の記憶容量には限界があり、自分について全てを覚えることはできない。しかし、自分を取り巻く無数の周りの人間の記憶容量を合わせればかなりの量になり、自分では記憶できないこともたくさん記憶している可能性がある。

(中略)

 自らの経験は自らの頭の中でにあると、何となく考えてきた。しかしそれは正しくなく、自らの経験は、社会の中で共有されているものなのである。

 

──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)

 

どうにも「経験」というものは、それを実際に体験した本人のものっていう印象があるんだけど、それだけとも言えないってことに気づいた。

まぁ、一般人だと少ないんだろうけど、有名人だと、誰それがどこどこで何をしていた、なんて話が、本人も覚えてないところで囁かれることも、非常に多いのではないだろうか。

なんたって、人生の全ての出来事を記憶できる人なんていないわけで、私も、アレそんなことやったっけ?ってなことを言われることが普通にある。相手の勘違い記憶違いの場合もあるんだろうけど、全部が全部そんなわけもない。

忘れる経験があるのは仕方がないことだ。でも、その経験が自分の中に何がしかの影響をしたことは間違いない。それを覚えているのが自分だろうが、他人だろうが、それはやっぱり自分がやったことなのだ。

己の記憶がすべて、という考えもあるんだろうけど、私としては、例え忘れたとしても、自分に起こった出来事はすべて自分のもの。覚えているのが他人だけだとしても、と考えるほうが、なんだか前向きで貪欲で私好みな気がするのだ。

 

 

ホクロにこだわる自分自身が奇妙にも思えた

四〇年のつきあいがなければ、そのホクロを取ることには全く抵抗を感じないという確信があるにもかかわらず、なぜか、四〇年の年月にこだわっている。(中略)過去の自分にすがる気持ちなどはないと思っていたはずだが、このホクロをきっかけにまだ多少なりとも残っている自分の過去へのこだわりに気がついた。

 

──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)

 

美容整形でホクロを取るって話からの派生なんだけど、特別、体にとって必要性のないホクロという存在でも、四〇年もの付き合いがあれば、執着してしまうものなんだ、という新鮮な驚きがあった。確かに、私も泣きぼくろがあるんだけど、他の人にもよく注目されるせいか、こいつを取るとなると抵抗を感じる気がする。

過去に執着しないのは難しい。過去というか、これまでの自分かな。今までこれで上手くいっていたんだからという自信とか、今まで一緒にいたんだから離れるのが苦しいっていう愛着とか。そういうずっと自分の中にあった感情とか記憶と別れるのってやっぱり辛いんだよね。

そりゃ、嫌いでも情が移って別れられない人がたくさん出てくるわけだよ。だって、ホクロと別れるのですら抵抗感あるんだから(笑)

著者はその執着に気づいたからこそ、それを取っ払うためにもホクロを取ったらしい。確かにそれも一つの手だ。止めようとする自分を抑えこんで、行動に出てみる。そうすると、新しいモノが入ってくる。執着消すのって難しいけれど、無理やり離れてみるってのはそういう意味では得策なのかもしれない。

 

 

言葉を正確にやりとりするだけでなく、感情表現をうまく取り入れる方が、対話をスムースに運ぶことができる

また、対話内容が不明確な場合でも、感情表現からその対話の不明確な部分を容易に推定できることもあろう。「嫌い」と言われても、その時の言葉の調子や表情によって、本当に相手が嫌いと思っているかどうかは判断が大きく変わる。

 

──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)

 

ちょっとしたニュアンスの違いによる勘違いが、あとになって響いてくるってことが結構あるから、言葉には気を使っている(つもり)で、どちらかというと、内容の正確性にとらわれがちなところがあるんだけど(職業病)、ま、なんにせよ無表情で言われるのと、笑顔で言われるのとでは、受け取る側の印象はずいぶん違うよね。

同じ「納得」でも、相手が怒っているように見えたからとりあえずの「納得」と、明るく冷静にさとされた「納得」じゃ、その後の心象が全然違ってくる。

引用にもあるように、「嫌い」ってワードは一番わかりやすい。嫌よ嫌よも好きのうちの「嫌い」もあれば、本気の「嫌い」もある。その判別をつけるのは、その嫌いを言った時の表情だったり、声の調子だったりする。

まぁ、そのへんの判別って難しいよね。機嫌悪いのかと思ったら、疲れて眠いだけだったっていうビビリ損なことがよくあって、もう(笑)

言葉以外の感情の部分って、コントロールするのは難しいけれど、なるべく自分が伝わって欲しい方向に寄せるってのはがんばらんといかんですな。

 

 

我々は自分の人格を自分で選択して形成していると言えるのではないだろうか

人格とは、経験を通して形成されると言われる。しかし、もう一歩踏み込めば、その経験はどれほどの根拠があるかは別として、多くの場合は自分で選択しているのである。そして、おそらくは意識して選択している者の方が、自己に対する認識も高まる気がする。常に「自分とは何か」「自分はこれでいいのか」「もっと自分があこがれる人がいるではないか」「まだ自分はその人のようになれていないではないか」、と。

 

──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)

 

経験を通して人格が形成されるとするならば、そして、その経験を自分で選びとっているとするならば、自分の今のこの人格は自分で作り上げたものだと言うことになる。なんて恐ろしい。

何がって、それなのに自分の人格のことをそんなに認識できていないことが恐ろしい。どの経験を選びとるかも無意識であれば、その結果どんな自分ができあがっているかも無意識なのである。

さらには、こうなりたい自分っていうのがぼんやりと浮かんでいるにも関わらず、そんな自分を手に入れるのとは真逆の選択ばかりしている。

ま、それが今の人格上、何も考えずにやる行動で、変えるつもりがないならそれでいいんじゃない?って思う部分もあるんだけどね。

こうなりたい、ああしたい、もっとこうできれば、そうやって今とは違うもっとできる自分を目指すのであれば、意識した選択ってのもやっていく必要があるんだよな。難しい。

 

 

我々人間は他人を通してしか、本当の自分を知ることができない

ゆえに、社会的である必要がある。人間やそして多くの動物が社会を形成するのは、この自己を正確に認識しようとするがゆえなのかもしれない。

 

──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)

 

鏡の中に映る自分は、他人から見られている自分とは違って、反転された姿の自分である。その時点で、もはや自分で自分を正確に認識できていないことになってしまう。

そういう見た目の認識もあるけれど、中身の認識のほうがもっと他人の存在が重要になってくる。より頭がいいとか、より優しいとか、よりずる賢いとか、他人がいないと自分がどの部分に突出しているのか、判別がつかない。

自分一人しかいない世界では、自分の才能には気づけないんじゃないかな。

それに、自己評価と他己評価って、結構ずれるんだよね。ずれてない人もいるのかな。自分じゃ大したことないって思ってることでも、人から見たらすごいことだったり、自分すげぇ!って一人で大喜びしたことが、世間的には大したことなかったり。そこをすりあわせていかないと、永遠に自分のことを正しく認識することなんてできやしない。ま、それでも100パーセントなんてありえないんだけどね。