言葉を正確にやりとりするだけでなく、感情表現をうまく取り入れる方が、対話をスムースに運ぶことができる
また、対話内容が不明確な場合でも、感情表現からその対話の不明確な部分を容易に推定できることもあろう。「嫌い」と言われても、その時の言葉の調子や表情によって、本当に相手が嫌いと思っているかどうかは判断が大きく変わる。
──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)
ちょっとしたニュアンスの違いによる勘違いが、あとになって響いてくるってことが結構あるから、言葉には気を使っている(つもり)で、どちらかというと、内容の正確性にとらわれがちなところがあるんだけど(職業病)、ま、なんにせよ無表情で言われるのと、笑顔で言われるのとでは、受け取る側の印象はずいぶん違うよね。
同じ「納得」でも、相手が怒っているように見えたからとりあえずの「納得」と、明るく冷静にさとされた「納得」じゃ、その後の心象が全然違ってくる。
引用にもあるように、「嫌い」ってワードは一番わかりやすい。嫌よ嫌よも好きのうちの「嫌い」もあれば、本気の「嫌い」もある。その判別をつけるのは、その嫌いを言った時の表情だったり、声の調子だったりする。
まぁ、そのへんの判別って難しいよね。機嫌悪いのかと思ったら、疲れて眠いだけだったっていうビビリ損なことがよくあって、もう(笑)
言葉以外の感情の部分って、コントロールするのは難しいけれど、なるべく自分が伝わって欲しい方向に寄せるってのはがんばらんといかんですな。
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我々は自分の人格を自分で選択して形成していると言えるのではないだろうか
人格とは、経験を通して形成されると言われる。しかし、もう一歩踏み込めば、その経験はどれほどの根拠があるかは別として、多くの場合は自分で選択しているのである。そして、おそらくは意識して選択している者の方が、自己に対する認識も高まる気がする。常に「自分とは何か」「自分はこれでいいのか」「もっと自分があこがれる人がいるではないか」「まだ自分はその人のようになれていないではないか」、と。
──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)
経験を通して人格が形成されるとするならば、そして、その経験を自分で選びとっているとするならば、自分の今のこの人格は自分で作り上げたものだと言うことになる。なんて恐ろしい。
何がって、それなのに自分の人格のことをそんなに認識できていないことが恐ろしい。どの経験を選びとるかも無意識であれば、その結果どんな自分ができあがっているかも無意識なのである。
さらには、こうなりたい自分っていうのがぼんやりと浮かんでいるにも関わらず、そんな自分を手に入れるのとは真逆の選択ばかりしている。
ま、それが今の人格上、何も考えずにやる行動で、変えるつもりがないならそれでいいんじゃない?って思う部分もあるんだけどね。
こうなりたい、ああしたい、もっとこうできれば、そうやって今とは違うもっとできる自分を目指すのであれば、意識した選択ってのもやっていく必要があるんだよな。難しい。
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我々人間は他人を通してしか、本当の自分を知ることができない
ゆえに、社会的である必要がある。人間やそして多くの動物が社会を形成するのは、この自己を正確に認識しようとするがゆえなのかもしれない。
──石黒浩(『どうすれば「人」を創れるか: アンドロイドになった私』より)
鏡の中に映る自分は、他人から見られている自分とは違って、反転された姿の自分である。その時点で、もはや自分で自分を正確に認識できていないことになってしまう。
そういう見た目の認識もあるけれど、中身の認識のほうがもっと他人の存在が重要になってくる。より頭がいいとか、より優しいとか、よりずる賢いとか、他人がいないと自分がどの部分に突出しているのか、判別がつかない。
自分一人しかいない世界では、自分の才能には気づけないんじゃないかな。
それに、自己評価と他己評価って、結構ずれるんだよね。ずれてない人もいるのかな。自分じゃ大したことないって思ってることでも、人から見たらすごいことだったり、自分すげぇ!って一人で大喜びしたことが、世間的には大したことなかったり。そこをすりあわせていかないと、永遠に自分のことを正しく認識することなんてできやしない。ま、それでも100パーセントなんてありえないんだけどね。
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仕事から離れて初めて、今まででは考え付かなかったようなことに思いを巡らせるようになるのだ。
“日常”を離れて距離をおくことで、思考はふいに“何がどこにある”“ここはどこだ”といった具体性をなくして抽象的になり、空間がひろがり、今までと違うアイデアが浮かぶようになる。仕事から離れて初めて、今まででは考え付かなかったようなことに思いを巡らせるようになるのだ。
──上野陽子(「プレジデント・オンライン」より)
仕事、仕事、仕事。忙しくてもそうじゃなくても、とにかく平日って大体頭の中は仕事ばっかりになる(え、そうでもない?)
まぁ、そうじゃなかったとしても、会社員だったら平日は毎日仕事、休みは土日だけっていうルーチンから外れるのって簡単にはいかないもんだ。GWとかお盆とか年末年始とかっていうイレギュラーが作れる休みはあるけど、みんな同じ時期に休むから、1年を1グループにすると、これまた年単位のルーチンになるから特別感ないんだよね。だからいつものことだけで終わってしまう。
そんなにやるわけじゃないんだけど、たまーに、何の用事もないのに、有給使って休むことがある。そうすると、みんなが働いてる時にゴロゴロできて、お店も空いててなんだか特別感が生まれる。それだけで、なんだか気分が様変わりする。
基本、ルーチンワークって耐えられない人なんやけど、日常生活は結構ルーチンになっちゃってて、自らそれを崩しにかからないと、いつものパターンで固定されちゃうんだよね。となると、考え方もいつものパターンになってしまう。
考え方だけを変えるのは難しい。だから、行動をまずは変えてみると、ちょっとしたことでも、確かに変化をするのかもね。
危険への心構えを持つことと、目に入るもの全てを危険と決めるつけることは、全くの別物じゃよ
日常に潜む危険を言い出したらキリがない。じゃが危険への心構えを持つことと、目に入るもの全てを危険と決めるつけることは、全くの別物じゃよ
──お地蔵さん(「ミイラの飼い方」79話より)
この言葉と似た話で最近思うのが、「人の悪意に備えることと、すべての人を悪人だと思うことは違う」ってこと。
よく人を動かす系の話をするときに出てくるのが、性善説と性悪説で、まぁ、どっちが正しいってのもないし、どっちかが正しかったとしても、誰もが善い面と悪い面を持ってると私は思ってる。
だから、たとえ性悪説に立ったとしても、誰もが魔が差して悪さをする可能性はあっても、誰もが悪人だと思っちゃいけないんだ。ああ、なんだか書いてて頭がこんがらがってきた。
要は、魔が差すことはあるかもしれないから、備えは必要だけど、いきなり出会い頭にこいつは悪いやつ、って決めつけて対応するわけじゃないよね、ってこと。
備えあれば憂いなし、でも、決め付けはよくない。
ミイラの飼い方(1) (アクションコミックス(comico BOOKS))
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