世界中の人々が全て自由になる日は来るかもしれない。
「自由」というものは本来、人と比較するものではないのに対して、「平等」というのはその本質からして相対的な概念だからである。もし世界に自分一人しかいなかったと仮定した時、「自由だ」とは思えるかもしれないが、「平等だ」とは思えないのである。
世界中の人々が全て自由になる日は来るかもしれない。しかし、残念ながら、平等になる日が来ることはない。
貧困は解決するかもしれない。しかし、平等は解決しない。
──安達裕哉(「ハフィントンポスト日本版」より)
正しいんだけどきっついですね、この言葉。
特に資本主義社会の中じゃあ全員「平等」とか完全に不可能ですよね。
誰かを蹴落としながら上を目指すのが基本だから。
じゃあ、なんでこの言葉取り上げたんだよ、て話になると思うんですけれど、
私が気に入ったのは「世界中の人々が全て自由になる日は来るかもしれない。」という言葉。
育った環境とか生まれた国とか性別とか、人生には生まれながらの制限がいろいろあるけれど、
そんなもの全部取っ払って自由、っていつかきっとなると思うんですね。
そもそも、願いは叶うじゃないけれど、制限があろうとなかろうと、
人間本気になれば、結構何でも叶えられると思うんですよ。
だから、そもそも世界は本人のやる気しだい(まぁ、やる気の出しやすさはあるけど)で、
どうにでもなるものなんですね。
そんな自由な世界の中で何をするのか。
それを考えながら漂うしかないんじゃないかなぁ、と思うわけです。
平等とか不可能なこと考える前に、自分が何やりたいか、じゃないかな、と。
そんなことをつらつら考えされられた言葉でした。
ちょっと難しいこと考えたら、とたんに文章支離滅裂気味ですね。激しく反省。